細久手宿⇔御嵩宿
  中山道往来 ~なかせんどううぉーく~ 』 開催!

                       【11月4日(土) 受付時間:8:30~10:00】
   “細久手宿のスタート・ゴールは、大黒屋前の細久手公民館です。”   【詳細】
細久手宿大黒屋
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『尾州家定本陣大黒屋』家紋:かたばみ
『尾州家定本陣大黒屋』 ロゴ 
中山道細久手宿道標
『尾州家定本陣大黒屋』
本卯建の上がる軒先
細久手宿(ほそくてしゅく)は、海抜420メートルの山中に発達した、江戸から48番目の宿場で、東北から南西方向に緩い下り坂が一筋に延び、その長さは400メートル余り(3町45間)。
 慶長15年(1610)に設置され、江戸時代後期の天保14年(1843)の記録によると、戸数65軒を数え、うち24軒が旅籠を営んでいた。
 その1軒が、『尾州家定本陣大黒屋』であった。
 細久手宿の本陣・脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋役酒井吉右衛門宅を「尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまりである。

宿内町並み
 細久手宿内は、東の高札場から西の日吉・愛宕神社入口まで宿長3町45間。
 宿内往還は、平均巾2間半(約5m)。宿内50軒の家々は、概ね間口6間半(約12m)に地割りされ、宿人馬役としての宿役のほか、旅篭屋を兼ねて往還の左右に町をなしていた。
 宿内は、東方から上・中・下町に3区分され、桝形(鍵の手)はなく、上・下両町が弓形(曲り)に造られていた。
細久手宿全景

大黒屋 本卯建 『大黒屋』の特徴は、軒廂付切妻造の2階建で、両端に本卯建を上げ、2階が1階に比して目立って低いことは、家の古さを示し、宿場時代の遺構とみられていたが、近年奥座敷前の緑東に「安政6年(1859)12月6日清七 米9合」の墨書銘が発見され、安政5年(1858)の大火類焼直後に再建された家であることが確証された。
 旅籠屋で年代の判明した唯一の例として貴重であるとのこと。
 意匠的にもすぐれ、とくに2階奥座敷の床・棚・書院の構えある室では床柱に太目の丸柱を用い、半丸の長押を用いるなど、この辺で見かけぬ数寄屋造であるうえに、次之間とともに障子腰板に松、秋草を描き、次之間の床壁にも杉らしい樹木を描き、剥落がはなはだしいが、品雅な筆致であるなど、江戸後期には見難い意匠である点、注目すべきことである。
 また一階奥座敷には数寄屋がないが、2間の付書院の上方は雲形板となり、床は7尺5寸の大床であり、棚構えでは斜めに向いた地袋上に棚を置くなど創意に富み、天井高がとくに高いことは武士や高貴な客を泊めた特殊な工夫とみられる。
 かくてこの部屋は、すべて大らかな雅味を感ずる。
『大黒屋』間取り紹介

 以下は、小木曽鍈五郎老からの聞き書きである。
 宿場時代の状態がまざまざと見られるような話が多い。
御室御所御用看板『冬が過ぎ春先になると宿は賑わってきた。
まず、奥州からの金比羅詣では、行きは東海道を通るが、帰りは中山道から戻って行くし、春秋の彼岸になると、善光寺参り、夏には御嶽参りが通って行った。
善光寺参りや御嶽参りは男女ともだったが、奥州からの金羅参りは男だけだった。
御嶽参りは水ごりをするので、水不足のときには困ったものだ。
江戸へ通う江州衆も始終通って行った。
越後からは縮緬(ちりめん)を背に負って、背負い子が大井泊りの次はこの宿で泊り、翌日は今渡から船に乗って京に行ったらしい。30貫を負った人もいた。背負い子には若いのも年寄りもいたが、一様にそんなに重いのを背負い子に乗せ、杖を突いて来た。
江州衆は何も持っていないが、番頭や小僧をつれて東京の出店に行ったものだ。品のよい客がが多かったものだ。』
(藤島亥治郎著『中山道-宿場と途上の踏査研究』より
『尾州家定本陣大黒屋』:玄関
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